◎日 時 12月15日(木) ◎場 所 労山会議室
◎内 容
★①『キルギス小旅行』越田和男(会員)
イシック・クル周回旅行の報告です。
★②『カザフスタンの天山カルリ・タウ登山』坂上光恵(会員)
カザフスタンのカルカラBCからカルリ・タウ登山、その後キルギスの南イニリチェク氷河を見てカラコルへ。
今夏のUAAA(アジア山岳連盟)のジョイント登山の報告です。
★③忘年会……①②終了後、飯田橋駅東側の中華料理『楼蘭』にて
◎日 時 12月15日(木) ◎場 所 労山会議室
◎内 容
★①『キルギス小旅行』越田和男(会員)
イシック・クル周回旅行の報告です。
★②『カザフスタンの天山カルリ・タウ登山』坂上光恵(会員)
カザフスタンのカルカラBCからカルリ・タウ登山、その後キルギスの南イニリチェク氷河を見てカラコルへ。
今夏のUAAA(アジア山岳連盟)のジョイント登山の報告です。
★③忘年会……①②終了後、飯田橋駅東側の中華料理『楼蘭』にて
当会の設立時からの会員であり、数々のご指導も賜った加藤九祚先生が、9月12日ウズベキスタンの発掘現場でなくなられました。謹んで哀悼の意を捧げると共に「偲ぶ会」の開催をお知らせいたします。 加藤九祚先生を偲ぶ会 加藤九祚が生涯を学びに捧げたのは、底知れぬ深く暗い歴史を背負い歩かねばならない運命を敢然と引き受ける覚悟を決めたからであり、絶えることのなかった笑顔は溢れる涙に溺れることを断固として拒絶する意志から自然に生まれたものでした。 労働者であり、学究であり、思索の人であり、行動の人であり、考察する人であり、文筆の人であり、大地を掘り下げる人であり、人間をこよなく愛する人であり、酒盃に詩の言葉を浮かべた人であり、ひたすら人びとに愛された人、加藤九祚はその日の到来を誰にも告げず、ひとり悠然ともう一つの新たな世界へと旅立ちました。 2016年9月12日、オクソスの流れのほとり、あざみ咲くカラ・テパを望み見ることのできる場所で。 先生を慕う人たちの集いを、下記のとおり開きたく、ご案内いたします。 記 と き 11月3日 14:00―17:30(受付は13:30より) ところ JICA地球ひろば2F「国際会議場」地図 (東京都新宿区市谷本村町10―5 電話:03-3269-2911) 会 費 3000円 その他 ☆平服でお越しください。 ☆お香典・お供物はお断りさせていただきます。 ☆ご葬儀は親族で済まされました。 ☆駐車場はありません 2016年9月 発起人代表 前田耕作 発起人 古曳正夫 日景啓子 大野 遼 江藤セデカ 井口龍太郎 林 俊雄 山内和也 後藤多聞 安田暎胤 加藤朝胤 井上隆史 ☆事前に参加申し込みをされた方は受付で、団体名とお名前を仰有ってください。(受付が混雑しないで済みます) ☆事前に参加申し込みをされていない方でも、出席できます。その場合は、受付で、名刺を頂戴するか、芳名帳に団体名と名前を記帳願います。
◎会 費 会員……資料代若干
会員外…資料代+会場費=五百円程度
19世紀半ばの人、フェトチェンコの生涯は短い。
ロシアは中央アジアへの版図拡大とともに、新獲得地域の学術調査が必要となり、モスクワ大学を卒業して間もない博物学者フェトチェンコは植物学を研究する妻とともに、中央アジアに3回派遣された。フェルガナ盆地からアライ山脈の峠に登ったとき、遥かなアライ谷のかなたにザ・アライ山脈を発見。
しかし、ザ・アライ山脈の南側に出ることはできなかった。その後、氷河登高技術の習得を目指したヨーロッパ・アルプスのモンブランで、29歳にして命を落とす。
彼の死後、学友オシャーニンが彼の果たせなかったルートを完遂し、そこで発見した巨大な氷河(山岳氷河として世界一)にフェトチェンコ氷河と名付けたのだ。
◎タイトル 『西トルキスタンへの旅』上、下 ランスディル著 大場正史訳 西域探検紀行全集3、4 1968 白水社 ◎担 当 本多海太郎 19世紀後半、一人の不思議なイギリス人が、ロシヤから西トルキスタンのタシュケント、フェルガーナ、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァへと主に馬車で旅をした。当時はロシヤが中央アジアの三汗国(コーカンド汗国、ブハラ汗国、ヒヴァ汗国)を併合する過程にあり、ロシヤと英国の緊張した関係の間での旅だった。そしてこれらの地方の詳細な記録を残したが、彼の何が不思議だったのか、また詳細な記録の内容は? ◎日 時 7月21日(木)午後6時から ◎場 所 勤労者山岳連盟会議室(飯田橋駅東口から10分) 東京都新宿区新小川町5-24 地図 http://www.jwaf.jp/profile/location/index.html ◎会 費 会員……資料代若干 会員外…資料代+会場費=五百円程度
タジキスタンやアフガニスタンのワハン、パキスタンの北部、中国のパミール地域に居住するワヒ族の生活を長年追い続けておられるお二方に、ワヒの生活実態を紹介していただきます。
■注意■ 会場がいつもと違います!
日大文理学部は京王線の「下高井戸」、または「桜上水」で下車。会場の8号館は正門を入って右手奥です。
◎日時 2016年5月19日(木)夜6時から
◎場所 飯田橋・日本勤労者山岳連盟会議室
◎議題 前年度活動報告・決算報告・今年度活動方針・予算他
◎講師略歴
1947年 掛川市生まれ。
1972年 名古屋山岳会アルプス&シルクロード登山隊で欧州アルプス遠征、その後イタリアからネパールまで自動車で走破。
1976年 日本・イラン合同ヒマラヤ遠征隊でマナスル登頂。
2003~10年 マルコ・ポーロ計画としてトルコ・ライアス港から毎年夏期休暇で北京まで自転車単独走破。
2015年 日本人10名の探検隊を組織、ゾルクル湖からシャイマックまで車で踏破、サリコール山脈中のナザタシュ峠へ到達。
著書に『我、日本のマルコ・ポーロとならん』 東京新聞 2011
◎タイトル 『パリジェンヌのラサ旅行』Ⅰ、Ⅱ 平凡社東洋文庫 1999年刊 A・ダヴィッド=ネール 著 中谷真理 訳
◎担 当 井手マヤ
「神秘の国」の文化に心ひかれ美しい高原にも魅了されたパリジェンヌが貧しい托鉢の巡礼に扮し、1923年鎖国下のチベットに潜入出来たのは、十年余の間に四度の入国を試みた後であった。知性と勇気と冒険のかずかず。 チベット仏教の学識を極めたいと願う優れた東洋学者の著者は、当時鎖国中のチベットに貧しい修業僧に身をやつして徒歩での潜入を試みる。 標高5000メートル近い峠をいくつも超え、強盗の国として恐れられるポ地方での災難を数々の智略と機転によってくぐり抜け、いくつかの奇跡も経験する! 沢山の本を書き100歳になってもヒマラヤへの旅にあこがれた、たぐいまれなる女性56歳の旅行記。
当日のレジメは⇒パリジェンヌのラサ旅行レジメ全
提言書はこちらからも見られます。⇒パミール名称問題Aug.31